2012年2月12日日曜日

大正昭和初期の考現学(モデルノロギオ)にエスノグラフィーの本質を見た


大正から昭和にかけて活躍された、今 和次郎(こん わじろう)氏の「採集講義展」に行ってきた。これが素晴らしく面白かった。

今氏は、建築家でもあり服飾デザイナーでもあるが、そのアイデアの根源は、エスノグラファーとしての活動からもたらされている。日本全国を歩き、民家の様子をスケッチした調査は圧巻である。

一方で、銀座の町を歩く人々を観察し、服装の分布、ひげの形やタバコの消し方、また「モダンガールの散歩コース」の観察、「2時間歩いて出会った犬の数と種類」など、目の付けどころがユニークであり、微笑ましくもある。

それらの観察結果を、手書きで表やグラフにまとめているのだが、その表現方法がすばらしくわかりやすい。しかもデータの集計なのに、イラストや手書きの文字に、暖かみさえ感じる。思わず、そのデータを詳細に読みたくなってしまうのだ。

いったいこれはどうしたことだろう。

デジカメも、ICレコーダーも、エクセルも、パワーポイントもない時代の調査結果が活き活きと表現され、見るものに深い関心を持たせることに成功している。

ペンとノートと「観察眼」さえあれば、エスノグラフィーは可能であり、ITツールは「あれば便利な補助ツール」でしかない、という事実を改めて認識させられる。

よい観察ができないとしたら、それはデジカメの画素数が足りないからではない。録音した音声が聞き取れないからではない。エクセルがよく落ちるからではない。

「観察眼」が足りないのだ。

テクノロジーの進歩で、昔はできなかったことができるようになってきたことは事実だと思う。一方で、昔はできていたことを、「テクノロジーが代行してくれる」という錯覚のもとにやらなくなってしまい、次第にできなくなってしまったのではないだろうか。

身体性をともなう行為、すなわち、自分の五感を駆使して得た生情報を大切にしたい。手当り次第に写真を撮ったり、全てを録音したりすることに気を取られて、自分自身が「その場で感じる」という行為をおろそかにしてしまうと、本質が見えなくなってしまうだろう。

参考文献:今和次郎 採集講義
参考文献:今和次郎 考現学入門